MGMの悲哀

 

弱り切った吼えるライオン

1.はじめに

トレードマーク「吼えるライオン」で知られるMGMは今年で75周年を迎えます。度重なる株主と経営陣の変遷劇で、すっかり弱り切ってしまったライオン。とりわけ近年では、「007」の続編をつくること以外にヒット作もなし。ヒット作を製作できなければ、ライブラリーを充実させるしかありません。そこでMGMは、第二次マーケット使用からの収益を増やそうとポリグラムのライブラリーを買収、さらにワーナーブラザースに2億2、500万ドルもの解約料を支払うことにより、ワーナーに握られていたビデオ配給契約を取り戻しました。一連の戦略には、同社の大株主カーク・カーコリアン氏の思惑が取りざたされています。「MGMの資産価値をあげることによって、再び売りに出す」と見ている人がハリウッドでは少なくありません。

2.黄金時代の終焉

「オズの魔法使い」「風と共に去りぬ」「ベンハー」「雨に唄えば」「お熱いのがお好き」「ウエスト・サイド物語」「ドクトル・ジバゴ」などの数々の名作を生み出したMGM。衰退していったスタジオとサバイバルしたスタジオの歴史は、アメリカの独占禁止法と密接な関係があります。重要な分岐点はパラマウント判決にさかのぼります。1948年の判決で製作配給と劇場との分離が命じられました。スタジオがコンテンツと出口を独占してきた歴史に終止符が打たれたのです。次の打撃は、あたらしいメディアの登場です。第二次大戦後テレビが普及し、人々が映画館に足を運ばなくなる時代がきました。ほとんどのスタジオが打撃を受けていました。MGMの負債金額は1969年当時、8,500万ドルとなっていました。銀行への返済もままならない状態で、4,500万ドルのライト・オフを出すところまで追い込まれていました。

3.カーク・カーコリアン氏

1969年、1986年そして1996年と、MGMを3回にわたり買収したカーコリアン氏。現在は、ダイムラー・クライスラーの主要株主でもある彼はいったいどんな人物なのでしょう。カーコリアン氏の両親は、アルメニア(現在のトルコ)からの移民で、カリフォルニアの小さな町で農業を営んでいました。ハイスクールをドロップアウトしたカーコリアン氏は、中古車のエンジンを洗う仕事につきます。MGMのスタジオに出向いて洗車をしたこともあります。1時間40セントの仕事でした。当時は不況の真っ直中。収入を増やすため、考えついた仕事はパイロットでした。第二次世界大戦が勃発したばかりで、パイロットの需要が高まっていました。空軍に入り込んだカーコリアン氏はパイロットとして、インドやアフリカに飛びました。一月1,000ドルのサラリーでした。大戦後、大きなチャンスが訪れます。戦争に使用された中古飛行機を買い取り、売るビジネスを始めます。ギャンブルの町ラスベガスに向かう観光客のためのチャーター機を提供することにより大金を手にします。飛行機ビジネスを売却した後、ラスベガスのカジノ、ホテルをのきなみ買収します。会社を買収し、資産価値を増やして売却するというビジネスを駆使するカーコリアン氏。次のターゲットはMGMだったのです。

4.会社の資産と経営方針

何故、ラスベガスのギャンブラーがハリウッド・ビジネスに興味を持ったのでしょう。スタジオの資産価値というのは目に見えるものではありません。資産価値を正確に見積もることが非常に難しい上、短期的な投資の対象としてはリスクが高すぎます。カーコリアン氏がMGMに投資する直前に、カナダの飲料会社シーグラム(現在、ユニバーサル・スタジオを所有している)の社長のお父さんであるエドガー・ブロンフマン氏がMGMを買収したことがあります。ブロンフマン氏は家族の反対に遭い、MGMをすぐに手放しています。そしてMGMは1969年、カーコリアン氏の手に渡ります。カーコリアン氏は、海外からの投資家と銀行からの融資をバックにMGMの株式40%を買収し、大株主となりました。当時の値段で1億ドル以上を支払ったことになります。 多額の借金をかかえたカーコリアン氏の船出。カーコリアン氏は、MGMの社員を50%に削減し、スタジオの敷地を売りに出し、そして1973年にはMGMの配給部門を廃止しました。MGMから配給部門がなくなり、ユナイテッド・アーティスト(UA)がMGMの映画を北米で、海外ではCIC(後にUIP)がMGMの映画を配給することになります。1970年から1980年までのMGMの映画バジェットは年間4本から7本で、合計300から500万ドルでした。他のスタジオが「スターウォーズ」「E.T.」「インディー・ジョーンズ」といったボックス・ヒットを作りだし、ケーブル・テレビ、ホーム・ビデオといったあらたなウインドウからの収益を生み出しているのを傍観するだけのMGM。ヒット作を出せなければ、劇場収益もストップし、キャッシュ・フローがなければ、新たな映画を作ることができない。会社の経営が不安定だと、良いプロジェクトがこないといった悪循環に陥ってしまいました。この悪循環から抜けだそうと考えたのが、1981年、MGMによるUAの買収。UAの保有する900タイトルの映画と、MGMのライブラリーを合計して4,100タイトルを、独自に配給し、第二次マーケットからの収益を上げようと考えました。UA買収に3億8,000万ドルという破格な値段を支払ってしまったこと、にも拘わらずCIC/MGM間の契約があったためUAを通じて配給することができないという重要な問題が発生していたのでした。

5.テッド・ターナー氏の目論見

「風と共に去りぬ」に人一倍愛着をもつテッド・ターナー氏。MGMのライブラリーにはRKOと1948年以前のワーナーブラザースの映画が含まれています。ケーブル・テレビを傘下にもつターナー氏の資産は合計3億5,400万ドル。MGMの売却希望価格は15億ドル。1986年、ターナーは自らの財産を担保として、MGMを買収しました。買収価格は15億ドルとMGMの負債引き受け。ターナー氏は投資家からの反対を受け、買ったばかりのMGMをカーコリアン氏に売却することになります。ターナー氏がMGMを所有していた期間は74日間でした。カーコリアン氏はMGMのロゴとUAの権利をそれぞれ3億ドルで買い取りました。ターナー氏の手に残ったのは、MGMのライブラリーとスタジオの敷地でした。ターナー氏は、MGMのライブラリーを使って、自ら保有するケーブル会社であるTNTにコンテンツを独占的に流すことにより、年間収入8億6,500万ドルと、7,300万人の契約者世帯を誇るケーブル・ジャイアントに成長させるのでした。ターナーはタイム・ワーナーに吸収合併され、ワーナー・ブラザースは、昔手放した1948年以前のワーナー・ブラザース・ライブラリーと1986年以前のMGMのライブラリー、そしてRKOのライブラリーを、ターナーを通して、保有することになったのです。ターナー氏は現在、タイム・ワーナーの大株主として君臨しています。

6.足かせ外れる

MGM/ワーナー間のビデオ独占配給契約の早期終了により、ワーナー・ブラザースが得たものは、2億2,500万ドルのキャッシュと、ターナーが保有するビデオ権でした。ワーナーがMGMに当時支払った契約金は3億5,000万ドル。ワーナーは契約金を14ヶ月で回収しており、さらに、MGMから9年間に亘り、12.5%のビデオ配給手数料を徴収しています。MGM/ワーナー間のビデオ独占配給契約は、ハリウッドにおける最も一方的な契約書と言われています。このワーナーとの契約があったため、MGMは長い間スプリット・ライツをおこなうことができませんでした。やっと足かせのとれたMGMがこれからどういったビジネスを打ち出していくのか期待しましょう。

映像新聞2000年8月28日掲載  (c) 2000 Midori Mahl All Rights Reserved

 
For More Information
Internet: mahlesq@aol.com